高杉町 知波夜比古神社


※画像をクリックすると拡大表示されます。

神社名: 知波夜比古ちはやひこ神社
所在地: 三次市高杉町383番地
御祭神ごさいじん 主祭神:日子穂々出見命ひここほでみのみこと
豊玉毘賣命とよたまひめのみこと邇々藝命ににぎのみこと木花佐久夜毘賣命このはなさくやひめのみこと鵜葺草葺不合命うがやふきあえずのみこと玉依毘賣命たまよりひめのみこと鹽椎命しほつちのみこと火須勢理命ほすせりのみこと事代主命ことしろぬしのみこと(昭和18年恵比須神社と合併)
例祭れいさい 10月第一日曜日
御朱印: 対応しております。(直接神社の方にお問い合わせください。)

境内社

神社名 御祭神ごさいじん 由緒等
嚴島神社 市杵島比賣命 享保十二年安芸国佐伯郡宮島より勧請の由
伊勢神社 天照大御神 享保十三年八月億兆安全五穀豊饒の為勧請
風王社 志那津比古神、猿田彦神、高篭神 (合併社)素龍王社と称す、勧請年代不詳。
陣山より猿田彦神、馬抓より高篭神合併
(明治四年朝旨により)
祝社 元禄元年 祝三吉安房守致高式部少輔隆亮・
武田丹後守廣縄之靈を奉祀の由(祖靈社)
正徳五年再興
荒神社 素佐之男命 勧請年代不詳
伊勢神社 天照大御神 享保十三年八月億兆安全五穀豊饒の為勧請
大山神社 大山祇神 勧請年代不詳 
享保十三年牛馬安全の為に再建
金比羅神社 大物主神 勧請年代不詳
明治十四年再建、水難防除祈願

由緒:
本神社御由緒調査書の該当項を要約すれば次の通りである。
二宮明神様(祭神日子穂々出見命)は廻神泉水の四番に天降り賜い、命のヨボシ(烏帽子)が 脱げ落ちたのでヌケヨボシと云う、次に足留山で一宿され、魚切の鳥帽子掛の岩のところで手を洗い賜われたので、手水池と云う廻神郷布久の家で更に一宿され、翌朝手水の後御神敕あり、『我は向に見ゆる杉の木の元に鎮座す、此に永く久く鎮座す。』 曰い、現在地に鎮座された。
・高杉城跡について(杉山城・祝城とも云う)
この高杉の一帯は馬洗川や美波羅川による肥沃な土地を背景として早くから開発され、中世に入っても三若の旗返山城に本拠をもつ江田氏の穀倉地として重要視された。本城跡の築城時期や城主については明らかではないが、觀応年間(1350年~1352年)に知波夜比古神社の社司祝氏が見られるのでその頃構築されたものであろう、戦国時代には江田氏の支城として続いたようであるが、尼子晴久勢と毛利(大内義長)勢が対決した際、天文二十二年(1553年)七月二十二日に尼子方であったこの城は大内方の毛利元就の兵に高杉城を攻め落とされ祝甲斐守父子は滅ぼされている。そのとき城並びに神社社殿共に焼失した。城の範囲は広義には高杉の段丘全域(370m×250m)とも考えられるが、遺構が明確に見られるのは、この段丘の南側にある現在の神社境内の周辺部分である。境内を囲む南北約70m東西約50mの範囲に土塁があり、その外側東・西・北の三方に堀が廻らされていた。(西側は現在道路)南側は一段下がって平壇がある。堀は幅4~5m深さ1m幅広の箱堀状をなし、特に土塁側は急崚に作られている。堀底は北西から南東へわずか傾斜をしており排水が考慮されていることが窺える。(境内は昭和五十九年広島県重要文化財史跡に指定)なお、神社の東方には祝氏を供養する宝筺印塔がある。
・知波夜比古神社本殿再建
知波夜比古神社の本殿は棟札によると弘治二年(1556年)毛利元就隆元父子が神威を畏れ三原の沖底より取り寄せた潮土を敷き、杵き固めた基礎の上に社殿を再興した。屋根を銅板葺きにし、その他若干の修理はしたものの大部分再建時のまま保存されている。(本殿は昭和三十四年三次市重要文化財に指定)
また、御神像は台座の銘によるとこの城が陥落した翌年にあたる天文二十三年六月に三吉致高隆亮父子により泉州堺から仏師をよびだし再造立させた。